本連載「『外食産業の歴史』を知る時間」は、全体が5章で構成されている。それは、外食産業のこれまで約50年間の流れは「5つの時代」でつながっていると、筆者が考えているからだ。そこで、全体の章立てはこのように構成されている。 第1章 ~1960年代から1990年代(バブル経済)までチェーンレストランが立ち上がり、画一化から多様性へ 第2章 ~1992年から2003年までの10年間チェーンレストランが小商圏化に進み、低価格を追及する 第3章 ~1990年代後半から2010年あたりまでFCブームを駆け抜けたベンチャー・リンクとBSEに揺れた時代 第4章 ~2011年から2020年までの10年間ボーダレス化、多様化、高品質化へ、そしてインバウンド 第5章 ~2020年から2023年までコロナ禍が外食産業にもたらした「生き抜く力」と「新しいステージ」図表① 外食産業市場の推移外食産業の市場規模の推移は、このような折れ線グラフに現れる。(出典:公益財団法人 食の安全・安心財団)データをとるようになったのは1975年から(左端)*上の折れ線:外食産業(料理品小売業を含む)■ピーク/1998年:32兆8918億円 ・2019年:33兆4901億円 ・2021年:24兆655億円*下の折れ線:外食産業計(給食主体部門+料飲主体部門)■ピーク/1997年:29兆702億円 ・2019年:26兆687億円 ・2021年:16兆9494億円それぞれ、コロナによって市場規模が減少しているが、2023年(右端)には、コロナ前の水準に戻りつつある。この『FOOD PURPOSE』が立ち上がった11月1日以来、本連載は3回行ったが、これらの内容は、上記の「第5章」を3回に分けて掲載した。 全5章のうちの最後の「第5章」を最初に持ってきた理由は、昨年までコロナ禍にあって外食が奮闘してきたことの記憶が冷めないうちに、その記事を公開しようと判断したからである。 そして、本連載の「第4回」は、上記の「第1章」を4回に分けて掲載する。それ以降は、「第2章」「第3章」「第4章」と続け行く。 では、第1章をスタートする。 第1章 1960年代から1990年代(バブル経済)までチェーンレストランが立ち上がり、画一化から多様性へ――その①(この章は4本) 1960年代に「食堂」が飛躍する条件がそろう産業が発展するきっかけにはエポックメーキングが存在する。日本の外食産業の場合は、「モータリーゼーション」「チェーンストア理論」「東京オリンピック」「大阪万国博覧会」であろう。 1番目、「モータリーゼーション」は、日本人の行動範囲を著しく広げて、物流を発展させて、商業の大きなステージを郊外に設けた。 モータリーゼーションが外食産業につながるのは「ドライブイン」が端緒である。1961年に日本のドライブインの先駆けと言われる「トヨペットサービスセンター」が神奈川・小田原にオープンしているが、ここはトラックドライバーの休憩や食事のとれる施設だった。その後、自動車各社が一般消費者向けの販売に力を入れるようになり、これらを対象とした飲食店がロードサイドに増えていった。そして、70年代以降からチェーン化志向の飲食店が続々と立ち上がり、本格的なロードサイドの時代が始まることになる。 2番目、「チェーンストア理論」とは、アメリカで生まれた経営手法である。あらゆる企業活動を中央集権的に本社(本部)へ集中させて、店舗(現場)ではオペレーションに専念することで経営効率を上げる。また、バイイングパワーが増した本社(本部)はスケールメリットを活かせるようになり、コストダウンを図ることできる。 「チェーンストア理論」をわが国に紹介したのは渥美俊一氏(1926年8月―2010年7月)で、日本は高度経済成長を達成する中にあっても日本人の生活の豊かさは国際水準からみれば成熟していないと捉え、製造業に比べると立ち遅れていた日本の流通分野を、チェーンストア産業づくりを推進することによって近代化し、生活水準の向上を実現することをビジョンとして掲げた。 1962年にチェーンストア経営研究団体の「ペガサスクラブ」を立ち上げ、翌63年にチェーンストア経営専門コンサルティング機関である「日本リテイリングセンター」を設立。こうして小売業をはじめ、飲食業、サービス業への普及に努めていった。初期の主要メンバーは、小売業ではダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコ、マイカル、ヨークベニマル、ユニー、イズミヤ等。飲食業では、サイゼリヤ、すかいらーく、吉野家、ジョナサン、木曽路、サト等が加わり、活動を推進した。 3番目、「東京オリンピック」は1964年に開催。この選手村では毎日7000食の食事がつくられていた。ここではレストランが2カ所設けられ、総勢300人を超える料理人がいた。オリンピック開催期間中に60万食がつくられた。この大量の調理を賄うために冷凍食品の技術と解凍法、調理法が向上した。 4番目、「大阪万国博覧会」は1970年に開催。当時の『月刊食堂』(柴田書店)の記事に「1日1億円が会場内の食堂に落ちている」とある。この中で注目されたのはアメリカゾーンで、「ケンタッキー・フライド・チキン」(以下、KFC)や当時福岡が本拠地であったロイヤルがカフェテリアやステーキハウスを運営していた。ここのKFCは日本にファストフードという業態の将来性を見せつけた。店内に「オートクッカー」が存在して、チキンとポテトにロールパンが付いて1セット350円、1日ざっと4600セットを販売し、日商160万円を売り上げていた。 以上、ざっくりと外食産業を発展させた4つの要因を述べたが、以下に外食産業を推進する役目を果たした、4つのチェーンレストランの初期のポイントをまとめておきたい。 「KFC」は1号店から4店目にしてようやく成功大阪万国博覧会の前年1969年に第二次資本自由化が行われ、その後、日本の飲食業に外資が到来していた。そして1970年、大阪万国博覧会の会期中の7月に、三菱商事とアメリカのケンタッキー・フライド・チキンが合弁で日本ケンタッキー・フライド・チキン(以下KFC、現・日本KFCホールディングス)を設立した。 1970年は、「ミスタードーナツ」(ダスキン)、「ウインピー」(東食ウインピー)、「ダンキンドーナツ」(レストラン西武)とファストフード(FF)チェーンが続々と立ち上がった年でもある。 KFCは大阪阪万国博覧会閉幕の2カ月後の11月に、名古屋市郊外のショッピングセンターの敷地内に1号店を出店した。この指揮を執っていたのは、後に社長となる大河原毅氏である。アメリカが描く日本での店舗展開は、名古屋、関西、東京へと直営を5店舗出店して、その後FC展開をしていくというものだったが、1号店のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター店(名古屋市西区)は月商50万円と振るわず3年後に閉店。 2号店は大阪・東住吉、3号店は大阪・枚方であるが、どちらも不振。その後、神戸トアロードの物件が出て、1971年4月に出店したところ軌道に乗った。そして、同年7月東京・青山に出店して成功。同年9月にFC第1号の神奈川・江ノ島店をオープンし爆発的にヒットし、チェーンレストランの道を切り拓いた。 KFCの店舗展開が都心からではなく郊外からであった理由は、アメリカ側の主張であった。三菱商事側では繁華街一等立地であれば宣伝効果が高いと主張したが、アメリカでは郊外ショッピングセンターの敷地内か、幹線道路沿いが立地の基本であった。日本でも当然この立地が主力となると主張した。 「マクドナルド」1号店は39時間で店をつくった日本マクドナルド(現・日本マクドナルドホールディングス)の創業者、藤田田氏は藤田商店という輸入商社を営んでいた。英語が達者であったことから、日本の大手商社などをアメリカ側に紹介する役割を担っていた。 マクドナルドはダイエーがアメリカとの合弁会社を設立するべく交渉を行っていたが、出資比率で合意に達することができず、決裂となった経緯があった。そして、ある日アメリカ側から「フジタ、マクドナルドを君がやってくれ」と提案があった。以下は『月刊食堂』の別冊『日本の外食産業』(1991年)からの引用である。 「私にはとてもできない。だからやれる人間を紹介しているではないか、と断ったら、われわれは決定権を持つ人間とさしで交渉したいんだ、と言ったね。そしてある程度金を持っていて、ある程度学歴があって、40歳前後で、自分の仕事を持っていて、遊んでいられて、英語が分かって、身体強壮である。そういう人間でなければ交渉相手にならない、と言うんだ。そして、お前は全ての条件を満たしているではないか、と言ったんだ」 これに対して、藤田氏は次の条件を出した。①出資比率は50対50であること。②社長は日本人がやって、アメリカ人は経営に一切口を出さないこと。③儲けはアメリカに持って帰らずに、全て日本で再投資すること。④経営権、人事権は一切藤田に帰属すること。あらゆる経営ノウハウは提供してもらうが、命令は一切出さないこと。 このような高飛車な条件を提示すると、提案は引き下げられるかと思ったが、代表のレイ・クロック氏は「こいつならばやる。事業に本気で取り組む気があるからこそ、厳しい条件をつきつけてきたのだ」と納得したのだという。 そこで、マクドナルド1号店は日本の商業の象徴である東京・銀座の三越百貨店1階に出店したのである。 同店は三越側から、工事の時間を「39時間」しか与えらなかった。そこで、同じような物件を用意し、工事を短縮して店をつくるためにシミュレーションを繰り返したという。 具体的には、1971年7月18日日曜日午後6時、三越百貨店の閉店とともに工事を開始(当時の三越百貨店は月曜日休業)。作業に取り掛かったのは総勢70人。ここから不眠不休の工事の後に、7月20日火曜日の朝9時に、マクドナルド日本1号店の開店レセプションを迎えることができた。――次回、11月28日に続く