第1章 1960年代から1990年代(バブル経済)までチェーンレストランが立ち上がり、画一化から多様性へ――その③(この章は4本) 客単価2500円よりワンランク上の満足感居酒屋チェーンは1990年に入り、客単価2500円のワンランク上に3500円のグループが誕生した。これらは、居酒屋で本来人気メニューの刺身をダイナミックに提供するもので、主にグループ客の宴会需要に対応した。 筆者はこの当時『飲食店経営』編集部に居て、1995年12月号では「95年飲食業の流れを変えた大繁盛店」という特集をした。ここで「大箱の店舗で鮮魚パワー全開」と題して、これらの動向をまとめている。 当時一世を風靡した「瑠玖」「めのコ」「北海道」が紹介されている。特に「瑠玖」の刺身は一切れが名刺サイズで厚さ1㎝くらいあって、目の前にやってきたときに興奮したものである。 このように大衆居酒屋よりワンランク上の業態が隆盛した理由は、1980年代の大衆居酒屋チェーンを体験していた若者たちが30代40代となり所得が増えたことと、経験値が高くなったことで既存の大衆居酒屋には飽き足りなくなったからである。さらに物流が発展することで、都会でも鮮度の高い食材を提供できるようになった。 この特集では、他のカテゴリーとして「店とお客が醸し出す劇場的空間」「フレッシュなビールの飲み比べ」がまとめられている。前者では当時人気のディナーレストラン「ニューヨークグリル&バー」(パークハイアット)や「イル・ボッカローネ」、カジュアルレストランの「オー・バカナル」「イル・フォルノ」を紹介した。 これらの店は当時、なかなか予約が取りづらかった。ディナーを楽しむために予約をするという今日の習慣は、これらの繁盛店がもたらした。後者は、地ビール解禁が1994年4月に行われたことから、伝統ある大手ビールメーカー系のビアレストランがビールのクオリティの高さをアピールするべく、ビアレストランのオープンが続いた。 アルコールを提供するディナー帯の非日常的な場面でも専門化、多様化が進んだ。これらの店に共通しているものは「エンターテインメント」という付加価値の存在である。「その店に行くとワクワクする」という劇場的な楽しさが、お客の来店動機につながった。 さらに上を行く客単価4000円の世界が定着このような現象はフジテレビの『料理の鉄人』(1993年10月~99年9月)も大きく後押ししていた。この番組は著名なシェフと挑戦者のシェフが一つの食材をテーマに番組の時間内で料理の技を競い合うというものだ。これによって、98年ごろから、ディナー帯に新しい外食シーンが登場した。 その先駆けとなったのはニューヨークの「ノブ」である。東京・深川出身の寿司職人であった松久信幸氏が、ビバリーヒルズのラ・シエガナ通りで日本料理の「マツヒサ」を営んでいたとき、ロバート・デニーロ氏が常連客となった。松久氏はデニーロ氏からニューヨークでの共同経営の話を持ち掛けられ、ニューヨークの起業家であるドリュー・ニーポレント氏も加わり、マンハッタンの旧倉庫街のトライベッカに1994年ノブが誕生した。 ノブはたちまちにして人気を博し、『ザガット(ニューヨーク版)』で優秀新人賞、および最優秀日本料理賞に輝いた。ザガットでのノブの紹介文は「ペルージャン・ジャパニーズ……」つまり「ペルー風の日本料理」という文言で始まる。神秘的な雰囲気が漂い、これが当時ニューヨークで人気のフュージョン料理の分野で頭角を現した。このようなノブの話題が、日本の事業者にも、お客にも伝わった。 これらを背景に『飲食店経営』1999年2月号では、「いよいよ強まる和風カジュアルの勢い」と題した特集を行った。 ここで紹介している事例店は「えん」「もめん屋」「すみか南青山店」「月の蔵」「野野」であるが、いずれも和食をベースとしたフュージョン料理である。客単価4000円から4500円。先の紹介した客単価3500円の業態と比べると、食事を共にする人数が少なく、主にカップルをターゲットとするところが多く見られた。また、間接照明を多用していて、非日常的な雰囲気を醸し出した。 飲食店に「QSC+アトモスフィア」が定着するこれらの領域で注目をされたのはミュープランニング&オペレーターズ(以下、ミュー)である。同社ではディナー帯の業態開発とモデルとなる飲食店を営業していた。先の「えん」と「すみか」の店舗デザインは同社が担当した。 ミューの母体はサントリーの業態開発部で、この当時に「ジガーバー」や「白札屋」「膳丸」「プロント」などのヒットコンセプトを生み出した。ここのミッションはウイスキーが売れにくくなっていた時代の顧客創造であった。特にジガーバーは通常のウイスキー1ショット30mℓを45mℓにした「ワンジガー」を生み出し人気を博して多店舗化した。 ミューの設立は1991年3月である。それ以降、ミューが時代を半歩先取りした形で新しい市場を切り開くことができたのは、前述したとおり飲食部門を持っていたからである。来るべき需要に対してこれらの直営店で実験と検証を行い、またこれらをショールームとしてアピールした。これらのポイントは、店舗デザインであり、メニュー開発など多岐にわたった。 ミューの直営のブランドとして「DEN」が挙げられるが、バー、トラットリア、居酒屋等で同じ店名がつけられていて、その店名の店に入ると新しい提案が満ちていた。この当時の筆者は、ミューの存在意義とは外食産業の原理原則であるQSCにアトモスフィア(素敵な雰囲気)を付け加えて新しい価値を創造したもの、としている。 これらの飲食店は簡単な言葉で表現すれば「かっこいい店」だ。これらの店を見た若者が発奮して「もっとかっこいい店をつくろう」と考える。このようにアトモスフィアのある店は、飲食業に新しい価値観をもたらし、マーケットを切り拓いた。 バブル経済によって「個性」や「感性」が尊重された筆者は1987年4月から93年9月まで『月刊食堂』編集部に在籍していた。当時の『月刊食堂』では「チェーンストア理論」の大御所、渥美俊一氏の連載を行っていた。この連載は、月に一度、東京・青山にある渥美氏のオフィスに10人の編集部員全員が集合して、1時間にわたって渥美氏が語るこの理論の原理原則やチェーン化企業の動向の解説に耳を傾け、その内容を記事化していた。私は、在籍していたときにその役割を担当していた。 渥美氏がひとどおりの講話を終えると、編集部員からの質問に渥美氏が答えるというQ&Aの時間となる。このときに編集部員の質問の内容は定性的なものを禁じられていた。すべからく数字やエビデンス(客観的事実)で表現しなければならなかった。 筆者が『月刊食堂』編集部に在籍していた時期に注目していただきたいが、ずばりバブル経済のはじまりと終焉までの時期と重なっている。渥美氏が語る飲食業は「チェーンストア理論」であっても、この当時の飲食業は多様性を帯びるようになっていた。「標準」とか「均一化」とは異なる、「個性」や「感性」をアピールする飲食業が「かっこいい!」と尊重されるようになった。渥美氏の講話の席で禁じられていた「定性的表現」が、バブル経済のこの時期にメジャーとなっていった。 それは、客単価がポピュラーなものではなく、それよりアッパーで、非日常的な要素のある店。フードにアルコールがコーディネートされて、客単価は3000~4000円あたり。バブル経済がこのような客単価を容認したかもしれないが、消費者そのものが「多様性」を求めるようになったからではないかと認識している。つまり「チェーンレストランもいいけど、もっとワクワクするレストランで食事がしたい」という感覚である。 このトレンドを象徴する飲食企業として、グローバルダイニング(代表/長谷川耕造)と際コーポレーション(代表/中島武)を挙げることができる。次回は、この二人がこの時期に行ったことの意義について論述する。 バブル当時に突如大人気!~「もつ鍋ブーム」を盛り上げた若い女性のパワー1992年の「日本流行語大賞」は、年間大賞として「きんさん・ぎんざん」、そして銅賞として「もつ鍋」が選出された。このときの「授賞語」(抜粋)ではこのように書かれている。「もつ(牛、豚、鶏の内臓)に、ニラとキャベツを入れて煮込むだけの素朴で荒々しい料理『もつ鍋』が全国的にブームになった。OLのオヤジギャル化により、「ゲテモノ料理」に抵抗がなくなったとの指摘もあるが、グルメだと大騒ぎしていたバブル時代の反動で、安くて栄養があっておいしいという料理の原点に戻っただけともいう。」「もつ鍋」の起源は終戦直後、炭鉱で働いていた朝鮮半島の人々が福岡で広めたとされていて、先の「授賞語」の指摘は、1980年代の中ごろにエスニックブーム料理や辛いメニューに親しんでいた若い女性が、もつの上にニラとキャベツを山盛りにして、ニンニクと赤唐辛子を効かせてスープで煮ながら食べる「もつ鍋」を求めるようになったことがブームの背景にあるとされている。この間、福岡市内ではこの専門店が100店舗以上出店したという。このブームを盛り上げた店は、1991年7月銀座8丁目にオープンした「もつ鍋元気」とされ、連日連夜大繁盛を呈していた。8割以上が女性客であった。店舗はビルの地下1階、50坪100席の規模で、当初日商110万円と想定していたが、この2割、3割を超える勢いで推移していた。同店はもともとジャズレストランとして営業していて、店にはミュージシャンや芸能人、文化人が出入りしていて、「博多で人気」のもつ鍋が話題に上げられるようになり、そこで「東京にももつ鍋店を」という流れになったとのこと。このような由来があって同店のBGMはジャズで、博多の大衆料理を提供する店としては、圧倒的におしゃれで、それも人気に拍車をかけた。しかしながら、1993年に入りこのブームは一気に沈静化した。今日「もつ鍋」は居酒屋メニューの定番となり、専門店も存在している。多様化する飲食の一つとして位置付けられている。(一部、『UMACA!』『Yahoo!ニュース』『日食外食レストラン新聞』の記事を引用)――次回、12月12日に続く。