第1章 1960年代から1990年代(バブル経済)までチェーンレストランが立ち上がり、画一化から多様性へ――その④(この章は4本) 「グローバルダイニング」と「際コーポレーション」の存在感とはグローバルダイニングは1973年12月、東京・高田馬場にオープンした喫茶店「北欧館」で創業。76年2月に、2店目の「六本木ゼスト」をオープンしてから、いわゆる「遊び場」として人が集まるエリアで展開していく。そして「モンスーンカフェ」「カフェ・ボエム」のブランドを次々と展開していった。客単価は4000~5000円あたりである。 また、同社は飲食業の起業家を次々と輩出していった。筆者はこのような人たちにインタビューをする機会をたくさん得たが、みな一様にこのようなことを述べていた。 「私がアルバイトに応募したのは、接客する人がみな輝いていたから。そして、長谷川社長はものすごくカッコよかった。新しくつくる店は想像できないほどつくり込みがなされていた。店の中には成果主義が徹底されていて、給与に関しては明快な評価システムがあり、頑張っている人の中には20代半ばで年収2000万円を超えている人がいた」 このような環境の中で、それぞれが自分で実現したい世界観が培われていくのだろう。これらの多様な想いが、飲食業界を豊かなものにしていく原動力となっていった。 一方の際コーポレーションの場合。「拓殖大学応援団長」という経歴を持つ中島武氏が、大学卒業後、航空会社をはじめ大手企業の一線を歩み、35歳で独立して、不動産、金融関連の事業を営んでいた。これらの事業がバブル経済の中で揺れて撤退することになった。 そして1990年12月、42歳で際コーポレーション㈱を設立。中国家庭料理をはじめ伝統料理をベースとしたさまざまな飲食店を展開するようになった。その後は、物販業、宿泊業なども展開するようになった。同社では1991年6月東京・福生に「韮菜万頭(にらまんじゅう)」をオープンして中国家庭料理の店を展開していくが、大きく頭角を現すようになったのは、96年9月ヨコハマスカイビルにオープンした「紅雲餃子坊」であった。正しくは「際コーポレーションプロデュース」の店である。とにかく、とてつもない繁盛店であった。同店は、ビルの10階に32坪60席の規模、『飲食店経営』1997年3月号の記事によると、客単価1200円で1日客数は600~650人、ピーク時は月商3800万円を売っていた。この店は、96年12月「紅虎餃子房」というブランドを生み出し、FCでも展開するようになった。「鉄鍋餃子」が大ヒット商品となり、すかいらーくのガストでもメニューに入れていた。バブル経済は飲食業に「業態発想」をもたらしたチェーンレストランは「標準化」「均一化」のコンセプトを継続していく。一方で、そのワンランク上の客単価で多様性に富んだ業態が出来ていく。さらに、その上には、シェフがスターとなったディナーレストランが存在感を増すようになった。具体的には、熊谷喜八氏、三國清三氏といった存在である。このようにバブル経済は飲食業に「業態発想」を明確にもたらしたと筆者は考えている。図表①は、飲食業の業態分類を示した「業態の三角形」である。図表①この解説はこのようになる。飲食業には、業態が4つ存在する。その4つの業態は、三角形で示される。三角形の縦軸は「客単価」を示す。下の辺は「市場のボリューム」を示す。そこで、三角形の一番下から上に、業態がこのように示される。一番下は「ファストフード」。客単価が低く、市場のボリュームが大きい。ファストフードの上は「ファミリーレストラン」。ファミリーレストランの上は「カジュアルレストラン」。そして、てっぺんは「ディナーレストラン」。ディナーレストランは、客単価が高く、市場のボリュームが小さい、ということを示している。これらの業態の、おおよその「客単価」、おおよその「注文を受けてから提供されるまでの時間(提供時間)」、「サービスの形態」、「サービスの内容」を図表①の下段の方にまとめた。この「業態の三角形」は、筆者が飲食業界の記者として取材を重ねてきた過程で、業態としての整合性を整えて、1995年におおよその形にしたものである。筆者は1987年に『月刊食堂』の編集部員となって以来、業界のさまざまなセミナーを受講させていただき、多くの研究者の考え方を学んだ。この「業態の三角形」の元となるのは、渥美俊一氏のブレーンの一人であった武川淑(よしお)氏が、飲食業界の構造を語るときに用いていた考え方を参考にしている。この章の最後に図表②として「外食産業を発展させた5つの要因」を掲げておきたい。これらは、この第1章の最初(本連載の第4回)に論述した4つに「バブル経済」を加えたものだ。バブル経済」は多くの人々にアッパーな外食を身近なものにさせた。 これらがきっかけとなり飲食業は大きな市場を見渡すことが可能になった。そして「これらを「業態分類」に落とし込むことによって、飲食の事業者は自らのビジネスの進むべき道が分かりやすくなっていったことであろう。 さて、外食産業の市場規模は1997年に29兆702億円というピークを迎える。そして、それ以降は下降現象を見せるようになる(本連載、第4回の「外食産業市場規模の推移」を参照)。果たして、これはどのようにもたらされたのか、この後、どのような現象がみられるようになったのか。次回からの第2章はここを中心に論述していく。図表②外食産業を発展させた5つの要因5つの要因とは、ずばりこのことである。① モータリーゼーション(1950年代~1960年代)クルマ社会が、物流、人流を活発にして、商業を飛躍的に大きな規模に押し上げた。② チェーンストア理論(1962年以降)「普通の価格の3分の1」にすることが、真の社会貢献であると説き、それに向かって努力することで、チェーンレストランが発展した。③ 東京オリンピック(1964年)ここの選手村で展開された日々の大量調理によって、大量調理のための厨房機器開発や、冷凍食品技術が発達した。④ 日本万国博覧会(1970年)アメリカで成長していたKFC(FC1号店は1952年)が同会場に出店、ファストフードという業態、フランチャイズチェーンの仕組みが紹介された。 ⑤ バブル経済(1980年代後半から1991年あたり)一次的であるが人々の収入が増えて、客単価の高い専門店を利用する機会が増えて、これらの外食の存在感が知られるようになった。――次回、12月19日に続く。