『フードパーパス』編集長の千葉哲幸が「いまどきの」繁盛店や繁盛現象をたどって、それをもたらした背景とこれからの展望について綴る。浅草吉原で120年続く馬肉料理店がたどった商売の変遷桜なべ中江(東京都台東区)「吉原の遊郭」目的のお客から、地元から愛される店へ第1回(この連載は計2回)いま、浅草吉原が盛り上がっている。それは特に週末ないし祝日の現象で、町の中央を横切る仲之町通りでは、たくさんの中高年の人が散策している。特に女性が目立つ。これらの人々の動機は、ウォーキングを楽しんでいる模様。スポーティな恰好が多い。このような浅草吉原人気は、現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう』の人気に起因しているようだ。このドラマでは、吉原は遊郭によって大層華やかで、町が盛り上がり、文化が成熟していた様子が描かれている。そして筆者は、この町で明治38年(1905年)より馬肉料理店を営んでいる「桜なべ中江」の四代目主人、中江白志(なかえ・しろし)氏(62歳)に取材をする機会を得た。同店は馬肉の鍋料理「桜鍋」をメインにして盛業している。同店は創業から「吉原」とともに存在して繁盛していた。しかしながら、「吉原の遊郭」が無くなってから、どのように営業形態を変えてきて、現在に至っているのか。柔軟に時代と共に歩んできた「老舗料理店の処世術」をまとめておきたい。「賑やかな吉原で、ハイカラグルメの商売をしよう」「桜なべ中江」の初代は桾太郎(くんたろう)氏。新潟で生まれ育ち、「一旗揚げよう」と明治20年頃(1890年あたり)に上京した、上野の黒門町の料理屋で修業をして、明治38年に「桜なべ中江」を現在の場所に開業した。この当時、吉原は大層にぎわっていた。この頃、横浜では「牛鍋」がブレークしていて、「じゃあ、東京では馬を食べよう」というトレンドが生まれた。この馬肉を使った鍋料理は「桜鍋」という名称で、瞬く間に東京の「ハイカラグルメ」として人気を博していく。「賑やかな吉原で、ハイカラグルメの商売をしよう」と、桾太郎は考えた。しかしながら、「桜なべ中江」に来るお客は、同店で食事をすることが目的ではない。吉原の「遊郭」が目的なのである。遊郭で遊ぶ前に「馬力」を付けるとか。夜食を食べるとか。遊郭で遊んで朝帰りに食べるとか。そのような利用動機で、四六時中にぎわっていたという。そこで同店と同じような馬肉料理店が20軒、30軒と連なるようになった。同店は2階建てで計50坪程度の規模。創業の店舗は、関東大震災(1923年9月1日)で倒壊し、現在の店舗はその翌年に建てられた大正建築である。神社などを手掛ける宮大工にお願いしたことから、店内の至る所に宮大工の技の匠が見られる。これまで改造・改築を重ねてきたが、当時の雰囲気をできるだけ残すように心掛けてきたという。外観は当時のものとほとんど同じである。そしてこの建物は、2010年に文化庁の「登録有形文化財」に指定された。また、二代目の祖太郎は絵心があって、店内にいくつか祖太郎の絵が飾られている。さらに、江戸時代後期の南画(文人画)である谷文晁(たに・ぶんちょう)作と伝えられる「四季の馬」や、武者小路実篤氏が同店のために書を描いた扇などがあり、建物の全体が文化財として存在している。こちらの絵は、江戸時代の文人画家・谷文晁氏作とされる作品、老舗の「凛」とした雰囲気を醸し出している「遊郭目的」のお客がいなくなり、地元から愛される店となる吉原の遊郭が機能していたのは、1945年の終戦まで。戦時中の「桜なべ中江」は「指定食堂」として使われていて、食券を持った特定のお客に馬肉料理を提供していた。また、同店では鉄不足の軍に桜鍋の「鉄鍋」を供出したり、馬が軍馬として徴用されたことから国内に馬がいなくなって、営業できない時期がしばらく続いた。1945年3月10日の東京大空襲によって、深川、浅草を中心に東京の下町中が火の海に飲み込まれた。しかしながら、同店だけは奇跡的に焼けずに残った。そして、同店は1950年頃に営業を再開するのだが、周りの馬肉料理店は空襲にあってなくなっていた。これらは営業の再開を断念して、吉原の馬肉料理店は同店だけが残っているという状況だ。1946年の1月に、GHQが民主化改革の一環として、日本政府に公娼制度の廃止を要求し、56年に売春防止法が公布され、58年に完全に施行されたことから、吉原の遊郭はなくなってしまう。そこで同店には、「遊郭に行く」という目的のお客がピタリとなくなった。吉原は別の形での風俗の街となって、現在の様相は1965年以降に出来上がっていたようだ。この頃から、同店のお客は以前と比べて大きく変化していく。まず、鷲神社(おおとりじんじゃ)の「おとりさま」や、三社祭をはじめとした「ものび」になると大層忙しくなった。また、四代目は早稲田大学OBで、浅草稲門会という大学の地域同窓会に入っていたことから、「早慶レガッタ」の打ち上げ会場として使用されるようになった。またこの界隈は、家内制手工場がとても多い。地方から集団就職でやってきた人たちが、住み込みで働いているといった町工場がたくさんあって、ここで働いている人たちが、「みんなでうまいもんを食いにいこうか」といった感じで利用したり。このようにして、地元の人々が利用する料理店として定着するようになった。 さらに40代50代の女性のお客が増えていった。それは、馬の脂には保湿効果があるということから、美容目的で馬肉料理を食べるというお客である。「コースメニュー」はバブル崩壊後に誕生した。スタンダードな「贅沢コース」で1万2180円(税込)牛肉のマイナスの出来事の一方で「馬肉」が注目される景気に山あり谷あり、である。これによって「桜なべ中江」も変化した。四代目は「バブル経済のときは景気が良かったが、大儲けするほどではありません」と振り返る。とは言え、この当時の同店の使われ方は、いかにも「バブル」であった。お客の多くは、きれいな女性と一緒、その同伴という形で、ご飯を食べずに、鍋だけ食べて、お酒を飲んで、「次、行くぞ!」という感じ。そして、銀座に繰り出す。当時はタクシーがつかまらないので、お客は黒塗りの社用車とかハイヤーでやって来た。それがバブルが崩壊すると、何軒もはしごをする時代ではなくなった。食事はなるべく一カ所で済ませるという風潮になって、同店では鍋から食事まで済ますことができるような「コース」をつくって対応した。ランチタイムも営業するようになった。また、黒塗りの社用車とかハイヤーのお客はいなくなった。バブル経済が崩壊して、店は少しずつ傾いていったが、ほぼ家族経営で営んでいたことと、借金がなかったことから、「なんとか食べていくことができて、そのうち世の中が落ち着いてきて、再び上り調子になっていったという感じです」(四代目)という。世の中では、リーマンショックと東日本大震災と続いたが、それが営業に影響したといっても、1年2年で回復したという。店内の随所の宮大工の匠の技が施されている。店内はさながら大正時代の資料館当時の食肉業界の動向を見渡すと、牛肉の分野ではO157 やBSEというマイナスの出来事が続いた。また、東日本大震災があった頃、北陸で牛肉のユッケを食べたお客が亡くなったという痛ましい事件があった。それに対して、馬肉には虫も菌もいなくて、生で食べることができるということで、馬肉が見直されるようになった。そこで、同店は忙しくなった。まさに、山あり谷ありである。そして、2020年に入り、時代はコロナ禍を迎える。ここで同店は大きな転換を経験した。それは果たしてどのようなことか。詳しくは、次回8月7日の本連載の記事を読んでいただきたい。「桜なべ中江」四代目の中江白志氏。「四代目とは三代目と五代目をつなぐ役割」と自認する