第3章 ~1990年代後半から2010年あたりまでFCブームを駆け抜けた「ベンチャー・リンク」と「BSE」に揺れた時代その④(この章は全体5本) コラムA『ファストフードが世界を食い尽くす』~「BSE」の発生を予言した本BSEが発生する1カ月前(2001年8月)に『ファストフードが世界を食い尽くす』(エリック・シュローサ―著、楡井浩一訳)という本が発行されていた。私は、その本の広告文から興味を抱き早速読了した。この本の前半はアメリカのファストフードの誕生秘話がつづられていて、とても興味深い。私としては、マクドナルドの中興の祖であるレイ・クロック氏とウォルト・ディズニー氏が同じイリノイ州出身で、ディズニー氏は1901年生まれ、クロック氏は1902年まれと1歳違いで、第一次世界大戦で同じ衛生隊に属していた――。ということから始まり、マクドナルドとディズニーのマーケティングを比較していくという構成にはとても感銘を受けた。しかしながら、後半からスタンスが一転する。これについては訳者が分かりやすくまとめているので、あとがきを引用する(一部抜粋)。「あまりに急速、あまりに大々的なその隆盛の陰で、失われたもの、ないがしろにされてきたものも多い。“食”という根元的な営みに関わるビジネスだけに、実生活上の各方面への影響は計り知れない。なおかつ、ビジネスとしてのありかた自体が、実は破壊的と呼べるほどに大きな問題をはらんでいる」消費者は自らを守るためにファストフードを監視せよ、と言わんばかりである。私にとって、その読後の強烈な印象が失せない中で、BSEは現実に起こったのである。コラムBアメリカでBSEが発生したことで起きた現象~2004年に入り「肉の新業態」が続々登場2003年12月末にアメリカでまでアメリカ産牛肉を使用してファミリーを対象としてきた焼き肉の個店では、オーストラリア産に切り替えることで低価格を訴求する選択肢もあったが、一方では和牛一頭買いを行うことで「こだわり」を訴求するところも現れた。2004年に入って誕生した牛肉に代わる新業態としては、まず「銘柄豚肉」と「本格焼酎」をマッチングした店が急激に増えた。銘柄豚肉の定義に明快なものはないが、品種と飼料にこだわっていることをブランディングしているものだ。日本には200以上あるとされている。「黒豚」が有名だが、これは純粋バークシャー種同士の交配から生産されたもので、産地として鹿児島が多いことから「鹿児島黒豚」がメジャーとなった。それに、単式蒸留機を使ってじっくりと蒸留することによって原料の風味が豊かで深い味わいになる「焼酎乙類」と合わせることを提案している。この本格焼酎も鹿児島をはじめとした九州が本場である。エー・ピーカンパニー(現エー・ピーホールディングス)の宮崎産地鶏をつかった「塚田農場」の前身である「わが家」が立ち上がったのは2004年で、メインの食材を宮崎産地鶏にした理由として、代表の米山久氏は「当時、黒豚と本格焼酎の店が続々と立ち上がり、それとは違う路線にしたかったから」と述べていた。また、羊肉による「ジンギスカン」が続々と増えた。FC展開を標榜して、チェーン本部を名乗るところも現れた。しかしながら、牛と比べると羊は体が小さく、牛ほどの部位や内臓の種類が豊富ではないためにグレージング(=いろいろな種類を楽しむこと)が弱く、リピーターにはなかなかつながらなかった。デザートにソフトクリームを提案しているところが多かったが、その理由は、急場しのぎでジンギスカンの店を立ち上げたために、メニュー全体のつくり込みが手薄になっていたからではないかと思われる。コラムC 浜倉好宣ワールドの誕生~外食バブル崩壊の後に現れた「再生」と「カオス」の飲食業2008年5月、JR恵比寿駅の近くに「恵比寿横丁」がオープンした。かつての公設市場の後で地権者が入り乱れて、誰も再開発をしようと思わなかった物件を2年がかりで交渉をまとめ上げて誕生した飲食店の集合体である。ここをプロデュースしたのは浜倉好宣氏(1967年生まれ)。「恵比寿横丁」(現在19店舗)を構成するそれぞれの店の経営者は異なり強烈な個性を放っているが、運命共同体としての強い絆を感じさせた。「飲食店プロデューサー」という役割は飲食店の空間を魅了するものにクリエイトする存在である。しかし浜倉ワールドの場合は、空間が美しい、カッコいいという価値観ではなく、人の心を揺さぶる空気が漂っていた。「恵比寿横丁」には、まさにこの世界観にあふれていた。浜倉氏が頭角を現したのは2006年6月、東京・門前仲町の飲食店街にオープンした「深川山憲」である。先に紹介したような内装で、25坪77席とギュウギュウに詰め込んだ店だ。当時浜倉氏は外食企業勤務から独立したばかりで、知人から「魚屋さんを営んでいた」という52歳の男性を紹介された。その「魚屋さん」は街の人にとって欠かせない存在であったが、近くにオープンしたスーパーが台頭することで閉店することになったという「この齢では、再就職もなかなかできない。家にいても何もすることがない」このように嘆く相談相手の話から、「自分たちもいずれ“おやじ”になっていくのだから、この先輩たちが輝きを失わないように、そして次世代にとって明るい未来をつくろう」と心に誓ったという。そこで誕生した同店は「おやじが再度イキイキと働いているからこそ生きている業態」として表現された。こうして浜倉氏は飲食店による「再生」の世界に入っていった。浜倉ワールドの「再生」の飲食空間は、みなにわかに大繁盛を呈した。 この当時、なぜ浜倉ワールドに人々が集まるようになったのか。それは、外食が1997年にピークを迎えながらダウントレンドに入っていき、低価格競争に突入した。このような飲食に人々は疲れて、「人間性」を求めるようになった、と筆者は感じている。 浜倉氏が率いる会社、㈱浜倉的商店研究所のHPでは「“たまり場”をつくる」とアピールするようになった。そして浜倉ワールドは商業施設からのプロデュースの依頼が増えるようになり、「カオス」の空間で人々を引き付けるようになった。――次回、2月20日に公開。