第3章 ~1990年代後半から2010年あたりまでFCブームを駆け抜けた「ベンチャー・リンク」と「BSE」に揺れた時代その③(この章は全体5本)焼肉店開業ブームはアウトソーシングの結晶焼肉店開業ブームを牽引した「牛角」では、1号店の段階からアルバイトだけで商品提供ができる仕組みを整えていた。具体的には、まず、食材の下ごしらえを完全に外注化して、肉はカット済みのものをお客に提供する分だけを仕入れるようにした。野菜も2号店からカット野菜に切り替えた。タレも仕様書発注にした。アルバイトだけで運営することで人件費を圧縮して、その分メインの肉にコストをかける、という考え方である。西山氏は当初「牛角」を直営で展開するかFCにするかと迷っていたが、サンマルクの株式公開の記事を読んで、同社を支援した会社の存在が気になり、帝国データバンクからベンチャー・リンク(以下、VL)の決算などを入手してパートナーとしての検討を始めたという。当初「牛角」はVLに取り合ってもらえなかったが、日本エル・シー・エーのFC診断を受けたところFC展開の可能性があると判断され、VLと日本エル・シー・エーの協力を受けて半年間をかけてFCパッケージをつくり上げた。正式にVLとFC開発の業務提携をしたのは1997年12月。翌年1月にはVLの会員に向けてFCの公募を行った。当初の契約はFC開発だけであったが、1998年にはSVの一部、人事(採用)にまで拡大していて、人材を派遣してもらうことも検討していたという。SVは自社で行っていたが、VLの方が経験が豊富だと判断し、VLに委ねることが増えていった。「牛角」では1999年12月の段階で、原価率36%、人件費17%となっていた。2号店の用賀店は32坪62席で月商1300万円、そして営業利益が30%を超えることもあった。こうして「オペレーションが簡単、お値打ち感の高い商品、高い生産性」の「牛角」は、時代の寵児となっていった。2001年3月号の焼肉店「牛角」特集の最後に、FCコンサルタントの黒川孝雄氏が牛角の成長性に次のようなコメントを寄せていた。「VLグループと牛角との間には、さまざまなアウトソーシングコンサルタント契約が成り立っている。特に、FCビジネスの生命線とも言うべき店舗開発と加盟店指導業務(SV活動)が全面的にアウトソーシングされている。果たして、これでFCビジネスのノウハウが『牛角』の中に蓄積できるであろうか。『牛角』はVLの丸抱えであり、もしも両社の間に亀裂でも生じた場合は、『牛角』の存続にもかかわる問題点である」「大いなる懸念」である。焼肉店開業ブームは、アウトソーシングに大きく委ねていたこともあり、その体質には脆さがあったと言えるだろう。 日本とアメリカでBSEが発生し焼肉店に逆風そして、焼肉店開業ブーム真っ盛りの最中、2001年9月10日に日本で狂牛病(BSE)騒動が発生する。途端に、焼肉店をはじめとした肉の世界には逆風が吹くようになった(ちなみに、翌日の9月11日は「アメリカ同時多発テロ事件」が起きた日である)。狂牛病の正しい名称は「牛海綿状脳症(BSE)」。牛の病気の一つで、BSEプリオンと呼ばれる病原体に牛が感染した場合、牛の脳の組織がスポンジ状になり、異常行動、運動失調などを示し、死亡するとされているもの。この原因は、かつてBSEに感染した牛の脳や脊髄などを原料とした餌が与えられたことによるもので、過去イギリスなどでの発症事例があった(厚生労働省)。イギリス政府はBSEが人間に感染して、クロイツフェルト・ヤコブ病、いわゆる痴呆症様症状が出ることは否定できないと発表して大騒動になった。BSEが発生したのは、“食”のビジネスが急速に拡大するために行った農業を工業化したためと言っても過言ではないだろう日本のテレビではBSE発生後、資料映像としてホルスタインの仔牛が脚を震わせながら崩れていく様子を放映、食肉そのものへの漠然とした不安感が募っていった。これに対して国や業界団体が「安全・安心」という考え方を普及させていった。チェーン化企業も価格の訴求ではなく、産地の由来をアピールするようになった。日本でのBSE騒動が沈静化したもののつかの間、2003年12月24日の朝(日本時間)に「アメリカでBSE発生」のニュースが報道された。これを受けて、農林水産省と厚生労働省は早速、アメリカ産牛肉、牛肉加工品、生体牛の輸入を一時的に取り止めとした。2001年に日本で発生したBSE問題は、広報活動やイメージ作戦で克服することができたが、03年のアメリカの場合は、物理的にアメリカから牛肉が入ってこないという局面を迎えた。当時日本で流通している牛肉の産地は、ざっくりと3分の1が国産、3分の1がアメリカ産、残りの3分の1がそれ以外の国々となっていた。アメリカ産牛肉は、特にチェーン展開しているフードサービス業が使用していることが多いことから、これらでは路線変更や新業態開発が迫られ、また外食に新しいトレンドも生まれた。立て続けに発生したBSEによって、発生前のようにFCで焼肉店を開業しようと思う人は皆無に等しくなった。「牛角」は2004年に全国で約800店というピークを迎えたが、店舗数が2割以上減少した。低価格競争と労働環境悪化で生まれた「ブラック企業」牛丼チェーンの動向を見ると、アメリカ産牛肉使用が99%という吉野家では会社の中から牛丼が無くなるカウントダウンが始まり、2004年の2月の段階で牛丼の販売を休止した。それ以来「カレー」「豚丼」「鮭いくら丼」といった代替商品を投入した。吉野家のカレーはその後、定番化した。「鮭いくら丼」は、当時京樽をグループ会社として擁していたことから、ここの食材で可能となった。さて、アメリカ産牛肉の輸入規制の緩和は、まず2005年12月に月齢20カ月以下となり、吉野家では牛丼の限定販売を行った。他のチェーンは、主にオーストラリア産に切り替えることで牛丼販売を継続したが、2009年には「すき家」が仕掛けた形で290円、280円といった牛丼の安売り競争が展開された。2013年2月から、牛の成体である30カ月以下に緩和された。この決定によって、危険部位と言われた骨付きの牛肉も提供可能となり、「Tボーンステーキ」を訴求するアメリカのステーキハウスが続々と日本に上陸するようになった。2009年は前年のリーマンショックの影響で飲食業の市場は冷え込んでいき、以来4年間ほどマイナス成長となっていった。またぞろ低価格競争に加えて、人員体制が省人化して労働環境が悪化したところも見られた。こうして2012年ごろから「飲食業には『ブラック企業』の体質がある」と言われるようになり、それを是正するために労働環境の改善に盛んに取り組むようになった。――次回、2月13日に公開。