第2章 ~1992年から2003年までの10年間チェーンレストランが小商圏化に進み、低価格を追及する――その①(この章は全体5本) 「おどろきのネダンと共に、15年前をお召し上がりください」(=15年前の価格にした新業態)この文言は1992年の春先。日経流通新聞(現、日経MJ)に掲載されたものだ。それは、すかいらーくが3月から行う実験店「ガスト」についての報道である。 1992年はバブル経済が終わったばかりである。バブル経済は消費者にディナーレストランの経験値を高めさせたが、フードサービス業全般では「3K」(きつい、きたない、きけん)と言われ、家賃が高騰して、すべからく逆風が吹いていた。当時私は33歳の若造だったが『月刊食堂』の編集長をしていて、平均年齢27歳で6人の編集部員を束ねていた。 若い編集部員たちはアポ入れの電話対応が未熟だったこともあるが、この当時に取材対応をしてくれる外食企業はほとんどなかった。そこで、誌面の多くは経営コンサルタントの論文を中心に構成していた。 そんな状態の中で「ガスト」が誕生した。当然、取材はウエルカムで、取材に飢えていたわれわれ経営マスコミはこぞってガストを取り上げた。 すかいらーくが「ガスト」で小商圏化対策を進める 「ガスト」は、ファミリーレストラン(FR)のリーディングカンパニー、すかいらーくが打ち出した低価格業態である。 1号店は1992年3月にリニューアルオープンした上水本町店(東京都小平市)。同店はすかいらーくが新事業を起こすたびに実験を行う店舗であった。当時、「すかいらーく」をはじめとしたFRでは、フードメニューが80品目でプライスポイントが680円であったが、「ガスト」はそれを35品目に絞り込み、人気メニューのハンバーグ、ピザ、スパゲッティ(このように表記)を380円とした。以来、FR「すかいらーく」の既存店を、ドリンクバーの設置以外に追加投資をほとんど行わず「ガスト」に切り替えていった。 それ以前に、すかいらーくでは東京・渋谷のスペイン坂の上に“サンタフェ風”のフライドチキンの店をオープンして、新コンセプトを盛んにアピールしていたが、にわかに撤退。そのユニフォームを「ガスト」上水本町店のスタッフが着用していた。 ちなみに「ガスト」を計画していた当時、すかいらーくは業績に問題点があったわけではない。経常利益は減益になることはあったが、経常利益率は10%を維持していた。 では「ガスト」は何を目指していたのか。当時のすかいらーく広報担当者はこう語っていた。 「ガストは当初、チェーンレストランが立ち向かう小商圏化の解決策として開発されました。それが1993年の“消費を抑える”という価値観が追い風となり、予想以上の展開を見せています」 「すかいらーく」から「ガスト」に転換した店の平均値は、客数205%、日商160%となっていた。上水本町店での実験段階では「客数150~200%となる」と予想されていたが、それをはるかに上回っていた。 「ガスト」が低価格を維持するために行ったことは、「サービスのトレードオフ」であった。従業員はお客に進んで接客をしない。お客が従業員に何かしてほしいときにはテーブル上にあるブザーを押す。ソフトドリンクはドリンクバーに集約して180円でフリーにした。ファーストサービスで水を持っていくのがFRの慣習であったが、これもお客が自分で行う。 このようなガストは「自由なレストラン」とさかんに紹介された。 「ガスト」が予想以上の繁盛を呈していたために、当初計画を修正した部分があった。それは1日当たりの総労働時間数である。「ガスト」は先に述べたサービスのトレードオフによって、FR「すかいらーく」の120~130時間に対して、「ガスト」は80時間と想定されていた。これによって人件費率は、「すかいらーく」30%に対して、「ガスト」24%としていた。しかし、「ガスト」の客数が前年対比で205%となったために総労働時間数は「すかいらーく」なみの120時間となって投入人件費も高くなった(ただし、売上高が増えていたので構成比は変わっていない)。総労働時間数が増えたことで、1店当たりの社員数は展開当初の2.0人から2.5人に増員した。 「すかいらーく」の1993年12月期の総店舗数は771店。そのうち「ガスト」は214店となっていて、FR「すかいらーく」は537店、「イエスタデイ」(ファミリーレストランのワンランク上)20店という構成。それを1994年12月期は「ガスト」395店、「すかいらーく」398店という計画を立てた。 「安さづくり」を追求することが正義だった 筆者は1993年8月に柴田書店を辞めることになり、同年11月商業界に入社して、柴田書店時代に編集長をしていた『月刊食堂』のライバル誌である『飲食店経営』に配属された。 筆者は『月刊食堂』当時の問題意識を継続して飲食業界の業界動向に取り組むことなった。当時のFR各社の指針は「安さづくり」に傾倒していて、安さを実現することが、真の社会貢献であると言わんばかりであった。 『飲食店経営』1994年9月号で「ガスト旋風丸1年~ローコスト・ロープライス完全研究」と題した特集をした。大御所の渥美俊一氏の論「低価格作戦の第1段階は、主力1品目の価格を2分の1にすることだ」を巻頭にして、全体を22ページでまとめた。その中で「これが低価格業態を成功させる手法だ」と題した座談会がハイライトとなっていた。メンバーは、外書企業を辞めて、それぞれの得意分野で活躍していたコンサルタント5人である。 5人の象徴的なコメントはこのようなものだ。・変化に立ち向かって、価格を低くするぞという決意表明が必要だ・今と同じ味で、安いものを仕入れるには、全然別の方法を探る必要がある・調理工程に主張を持って、メニューを絞り込み、厨房の革新に挑戦すべき・厨房機器はスタンダードを採用し、その機能を徹底的に分析して使え・投資コスト抑制を国内だけで考えずに、海外建材の活用で品質を下げない工夫を しかし、このトレンドに追随しなかった外食企業も存在していたことを明記しておきたい。それはこれらの会社の経営理念によるものだが、時代がこぞって「安さづくり」を注目していたので、誌面に取り上げられることはなかった。しかし、『飲食店経営』1994年3月号で、大阪のFRチェーン副社長を務めたあるコンサルタントがこうコメントしている。 「これまでチェーンレストランの商品は『まずくないメニューを、そこそこの価格で提供すること』が重要なポイントでした。しかし、大衆がいま求めているのは、プライスとおいしさです。これからはこれまでとは違った条件が求められる。低価格業態が400店舗、500店舗と拡大されたときに最も問われるのは、従業員のモラールがどのように維持されるか、です」 本部がチェーンレストランの「安さづくり」だけに邁進していると、その現場で働いている人たちが疲弊してしまうということだ。つまり「安さづくり」の号令は、自滅の道を歩んでいくことにつながるのではないか、という指摘である。 ――次回、12月26日に続く。