第2章 ~1992年から2003年までの10年間チェーンレストランが小商圏化に進み、低価格を追及する――その⑤(この章は全体5本)コラムA「お腹一杯」から「心の充足」へ~「スターバックスコーヒー」が体現した飲食業の存在価値の転換マクドナルドよりも速い出店スピード1996年8月、東京・銀座3丁目、百貨店の松屋の裏手に「スターバックスコーヒー」(以下、スタバ)の日本1号店がオープンした。私にとってのスタバ初体験は1991年の7月である。当時『月刊食堂』の編集長に就任したばかりで、アメリカ西海岸の外食視察ツアーに参加して、ポートランドで体験した。ここで私は、店内にたばこの匂いがしなかったことと、コーヒーの素晴らしい香りが漂っていたことに衝撃を覚えた。1995年に入って、スタバが日本に上陸することが噂されるようになり、日本のパートナーがサザビー(現・サザビーグループ)であることも明かされた。しかしながら、スタバの成功を危ぶむ声が大半だった。その理由は、当時日本のコーヒーショップの世界は「ドトールコーヒーショップ」(以下、ドトール)が約400店舗展開していて、新たにこの市場に参入するのは難しいのではないかと考えられていたからだ。しかしながら、スタバは1号店出店から5年間で300店舗を突破した。しかもすべて直営店である。この出店スピードは異例である。それまで日本における飲食店の急成長は「マクドナルド」が常識であったが、同チェーンでさえ1号店から5年間で達成したのは100店舗である。 当時のコーヒーショップの常識とは別の路線スタバ1号店オ―プンからしばらくして、スタバとドトールとの違いを整理してみた。(1)店舗数の違いドトールはこのとき400店舗で、スタバは1号店をオープンしたばかり。(2)価格の違いドトールのコーヒー1杯の価格は150円。一方、スタバはショート(S)、トール(T)、グランデ(G)と3種類があり、価格がS250円、T290円、G320円と、ドトールの約2倍の価格設定。(3)提供スピードドトールは、注文を伺い、くるりと後ろを向いてコーヒーを抽出して、再びくるりと回ってコーヒーを提供するというクイックサービス。一方、スタバはコーヒーの注文を伺うところ、コーヒーをつくるところ、コーヒーを提供するところとそれぞれ異なる。注文したコーヒーが出てくるまでに2分程度はかかる。(4)コーヒーの味わい1996年の当時、ドトールは店舗展開を全国に拡大していくために、コーヒーの味わいをソフトにしていた。スタバの場合は、フォームド(泡立てた)ミルクによって、コーヒーをストレートで飲むことが苦手な人も飲みやすいように工夫をしていた。(5)店内喫煙?禁煙?当時、喫茶店での喫煙は常識であった。それにも関わらず、スタバは店内禁煙を保っていた。――以上、スタバは当時のコーヒーショップの常識とは別の路線を歩んでいた。 「アッパースケールへの誘い」が存在するこのように当時異例尽くしのスタバは、なぜ異例の速さで店舗展開できたのであろうか。それは、ずばり「コーヒーでライフスタイルを提案しているから」ではないか。まず目に見えるポイントを挙げると、メニュー構成が幅広い客層に対応していたことである。例えば、ラテやカプチーノ、フラペチーノなどによって、利用動機を広げた。日本の場合、ラテやカプチーノは「コーヒー牛乳」となるが、これとは異なる洗練された価値観があった。また、テイクアウト用の容器を採用して、この利用パターンを増やした。そして、スタバにおける最大の特徴は、目に見えないポイントにある。それは「アッパースケールへの誘い」ということ。これは、スタバに行くと、ライフスタイルで上のクラスに仲間入りした気分になる、という意味である。店内に清廉なコーヒーの香りが染みわたる空間は、扉の外とは別世界である。スタバの前述した異例づくし、すなわち、既存チェーンに対して「2倍の価格」「スローサービス」「洗練されたドリンクの表現」、そして「店内禁煙」というコーヒーのクオリティをかたくなに保つ姿勢が「アッパースケールへの誘い」を体現している。「豊かな外食」のはじまりは、「お腹一杯食べられる」ということであった。そして、「ご馳走が、手の届く価格でいつでも食べられる」という形で変化していった。それは、経済の発展に伴う、経験値の高さによって変化したものだ。そして、1996年に登場したスタバが示した「豊かな外食」とは、「自分が素敵になった気分になれる」ということであった。つまり、「お腹一杯」ではなく「心の充足」ということである。 2000年に入り、ドメスティックな外食チェーンはこぞって「低価格」に傾斜していたが、スタバはこの「心の充足」の路線を崩すことなく、急速に店舗を増やし、そして消費者のライフスタイルに定着していった。ちなみに、スタバを展開するスターバックスコーヒージャパンは、アメリカ本社のスターバックス・コーポレーションが2014年3月に完全子会社化した。コラムB 「自然派ビュッフェ」の登場~「食べ放題」が、6次化によって新しい市場を切り拓く 「食べ放題」の始まりは、帝国ホテルが1958年8月に新館をオープンする際に開設した「インペリアルバイキング」とされている。好きな食べ物を好きなだけ食べられるこの仕組みは「お腹を満たす」という点では究極の外食と言えるであろう。しかしながら、この「究極の外食」はアイデアを持たないところが、自分の無策ぶりを露呈するような状態にもなった。本連載の第4回(2024年11月24日公開)で掲載した外食産業市場動向の折れ線グラフで、外食産業市場は1970年代80年代と右肩上がりに成長していたが、1997年にピークを迎えてそこから低迷するようになった。 このとき「食べ放題ブーム」が巻き起こった。『飲食店経営』の1997年3月号で「食べ放題白書」と題した特集をした。そのときに筆者が巻頭言としてこのような文章を書いた。「テレビや一本情報誌では、食べ放題は食の欲求を満たす究極のレストランのように紹介される。実に楽しそうだ。しかしながら、街の多くの実態は不毛である。その理由の根本は、商品、サービスともに店の主張がないからだ。」……それこそ、猫も杓子も、という状況であった。外食は完全に飽和状態になっていた、ということであろう。そのような中で1998年6月、熊本に異彩を放つ食べ放題がオープンした。「土に命と愛ありて―ティア」(以下、ティア)である。そして、このコンセプトを踏襲する事例が相次いだ。 自然回帰、家庭回帰のコンセプトティアは野菜を中心とした家庭料理の食べ放題レストランである。店内には大テーブルが4カ所ほど置かれ、その上に料理を盛り込んだ大皿が並べられる。ご飯は白米だけでなく、玄米、十穀米など選べるようになっていて、ハヤシやカレーもある。さらに、デザート、ソフトドリンクなども選べるようになっている。創業者は浜勝(リンガーハットグループ)で社長を務めた元岡健二氏。元岡氏は外食企業勤務当時、産地を回っていたときに有機農業に取り組んでいる農家が、それが取れ過ぎたときの販路や、曲がっているものなどの規格外の野菜の扱いに困っているということに直面した。そこで元岡氏はこれらを積極的に受け入れていこうと考えた。また、当時失われつつあった食べ物の“旬”も見直して、全て旬の素材で、その季節に採れたものでさまざまな料理を提供しようと考えた。さらに、「3世代で食べられる、毎日繰り返して食べても飽きのこない食事」をコンセプトとした。2000年に入り、ティアのコンセプトを踏襲する飲食店が続々とオープンしていき、これらの業態は「自然派ビュッフェ」と呼ばれるようになった。その代表的な例として、2001年北九州市に1号店がオープンした「野の葡萄」が挙げられる。同店を運営するのは㈱グラノ24Kである。同社社長の小役丸秀一氏は福岡・岡垣町で旅館業を営む家に育ち、調理の修業をした後に、実家のブドウ園の中にバーベキューができる店をオープン。さらに、ブライダル部門、食品製造、農業法人を設けた。海も畑も間近にする食材の豊富な場所で、しかも大商圏である福岡市と北九州の中間に位置する絶好の立地にあり、食に関わる事業を多角的に展開していく。野の葡萄の2号店は2002年、福岡市内の繁華街・天神の商業施設「イムズ」に出店し、たちまちにして月商3000万円の大ヒットを飛ばした。この物件は当時のロイヤルが展開していた「シズラー」の後継で、当時シズラー事業の責任者であった梅谷羊次氏が後の著書でこのように述べていた。「野の葡萄がシズラーの3倍の売上を記録していることを知り、衝撃を受けた私は早速岡垣町の『ぶどうの樹』を訪問した。訪問して知ったのは売上差の最大の要因はチェーンレストランに足りないFarm to Table(農業から食卓へ)の考え方であるということだ。これこそが今で言う6次産業的なレストランモデルである」シズラーはサラダバーを打ち出した業態であり、それと似た業態の野の葡萄はなぜそれほどの繁盛を維持するのができたか。筆者は、店が放つ「劇場性」だと思う。料理を盛り込んだ大皿は彩がよく考えられて、それがたくさん揃っている状態がお花畑のように美しい。さらに、出来上がった料理をスタッフが大テーブルまで運ぶのだが、大きくよく通る声で「○○○(料理名)が出来上がりました――!」と、食材や調理内容も含めて語りながら歩く。店内にいて、とても心地よい気分を体験した。――次回、1月23日に続く。