第1章 1960年代から1990年代(バブル経済)までチェーンレストランが立ち上がり、画一化から多様性へ――その②(この章は4本) 「ロイヤル」は外食産業のモデルをつくったロイヤル(現・ロイヤルホールディングス)の創業者、江頭匡一氏は1923年(大正12年)3月生まれ。終戦後の46年に電気工事会社の昭興電業社を福岡市内に設立し、事業家としてのスタートを切った。それ以前、福岡・板付のアメリカ軍基地でコック見習いをしていたことがあり、この縁でアメリカ軍の指定商人となった。 1949年春日原基地の中にベーカリー工場をつくり、初めて「食」と出合った。翌50年にロイヤルの前身となるキルロイ貿易を設立した。 本格的な外食ビジネスへの足掛かりとなったのは、1951年10月に板付空港(現・福岡空港)内にレストランをオープンし、機内食の納入事業を始めたこと。そして、ロイヤルホストの源流となる「ロイヤル中洲本店」を53年11月、福岡・中洲にオープン。56年5月に、ベーカリー、レストラン、アイスクリームの3つの事業を統合してロイヤルを設立した。 ロイヤルは、近代のフードサービス業においてあらゆる先駆的なことを行った。 まず、1962年9月に冷凍技術を持ったセントラルキッチンを開設した。これがアメリカのフードサービス業を産業化につなげたことを、江頭氏はアメリカの専門誌を読んで知っていた。 1970年3月、大阪万国博覧会のアメリカゾーンに外国店扱いで、ステーキハウスやカフェテリアレストランなど4店舗を出店。会場内の各国レストランの中で期間中ナンバーワンの売上を記録した。 1971年12月、郊外型ファミリーレストラン「ロイヤルホスト」の1号店をFCによって福岡県北九州市の黒崎にオープン。 1977年3月ロイヤルホスト三鷹店を出店し、ロイヤルは東京進出を果たした。ヘリコプターで出店立地を捜したという。 1978年8月、福岡証券取引所に上場。これは「食べ物屋」さんを「フードサービス業」という実業につなげることになった。 「すかいらーく」は急速出店の仕組みをつくったすかいらーくは、長野・諏訪市出身の横川端(ただし)、茅野亮(たすく)、横川竟(きわむ)、横川紀夫(のりお)の4兄弟が創業した。 東京で事業を立ち上げる話は次男の亮から、二人の弟に声を掛けた。後に長男の端が参画した。最初は3人で「ことぶき食品」という食料品店を東京・下北多摩郡(現・西東京市)のひばりが丘団地の前で営んだ。赤ちゃんの離乳食用に考えられた減塩・無添加のシラスのパックが主婦の間で評判となり、三多摩地区で店舗を展開していった。 しかしながら、1968年に「流通革命」を名乗る大型チェーンストアが近隣にオープンして、ことぶき食品の売上は激減した。 このまま食品店を展開していくのか、別の事業に転進するか。そこで、1966年と67年に渥美俊一氏主催のペガサスクラブのアメリカ視察セミナーに参加した。そこで見たものは、郊外立地で隆盛するショッピングセンターと、それを取り巻く外食チェーンであった。 そこで、飲食業へ狙いを定めた。さらに、団塊の世代のニューファミリーに狙いを定めて、家族で楽しく過ごす「ファミリーレストラン」(FR)を考え出した。 こうしてFR「すかいらーく」の1号店(国立店)は1970年7月、府中市西府町の甲州街道下り線にオープンした。 すかいらーくがチェーン展開のために考え出した仕組みは「リースバッグ方式」である。この仕組みは、店舗を出店するとき、土地を購入すると高い買い物になる。地主も土地を売りたくない。このような事情から「立地を選定したら、地主に交渉し、すかいらーくが設計した建物を地主負担で建ててもらう。その見返りとして、すかいらーくは投資額に見合う家賃を支払う」というものだ。地主との合意の下で店舗をつくってもらい、借り戻すので「リースバック方式」である。この仕組みには各社が追随した。 こうしてチェーン化を推進していたが、1991年のバブル経済崩壊とともに転機期を迎えた。店舗数が増えてきたことで、店舗当たりの商圏設定も縮み、家族客も減少してきてきた。そこで、第2章で後述する低価格業態の「ガスト」が誕生する。 居酒屋のレジャー化とチェーン化が進むファストフード(FF)とファミリーレストラン(FR)はFFが客単価500円前後、FRが客単価1000円前後と、価格が低くて、食事が中心の業態のチェーン展開であった。これは1970年に始まり、1980年代に大きく隆盛した。その一方で、居酒屋の世界でもチェーン展開が進んでいった。 この草分け的存在はニユートーキヨー(全て大文字)である。1937年(昭和12年)に有楽町に当時朝日新聞と日本劇場の向かい側に5階建ての本店ビルが誕生、1階がドイツ風ビアホール、2階が生ビールと和食、3階が生ビールとすき焼き、4階がビールも飲めるカフェ、5階屋上がビアテラスと、わが国初の総合飲食ビルである。同社は、これより本格的にビアホールを展開していった。このような同社に倣う事例がたくさん出てきて、アルコール業態の大衆化とレジャー化が活発になっていった。 大衆居酒屋チェーンでは、養老乃瀧に起源が求められる。同社は1938年に長野・松本市で創業、56年12月に神奈川・横浜市に「養老乃瀧」1号店をオープンし、本社も横浜に移して多店化を始めた。66年10月には、FC1号店を東京・成増にオープンした。 以来、大衆居酒屋チェーンの創業は1970年前後が多い。カッコ内は、運営する会社名と1号店がオープンした年を示している。・「庄や」(大庄、1968年)・「天狗」(テンアライド、1969年)・「つぼ八」(1973年)・「村さ来」(日本料飲コンサルタンツ、1973年) これらのチェーンは1982年ごろから大きく隆盛する。その背景には、酎ハイに甘いシロップを入れて飲みやすくした粗利の高いドリンクと、価格上のブランディングが存在した。 価格上のブランディングとは、客単価2500円に着地できるようにしたことだ。居酒屋のお客は1人あたり5品目注文する。それは2ドリンク・3フードの場合もあるが、3ドリンク・2フードの場合もある。そこで単品の価格をすべからく500円に近づけた。 今日生ビールは「中ジョッキ」という言い方をするが、それは当時の本来のビールジョッキはもっと大きくて生ビールは800円あたりの価格だったことから、それを500円に近づけるために「中ジョッキ」という容器を開発し、この名称が生まれた。焼鳥は3本セットで400円、刺身は3点盛で650円という具合である。そこで「約500円×5=2500円」となる。こういう仕組みはお客にとって安心感を大いにもたらした。 これら大衆居酒屋チェーンの次の勢力は、モンテローザ(1975年)とワタミ(84年)である。この両社ともつぼ八の加盟店からスタートして、後にモンテローザは2000店、ワタミは700店と隆盛した。――次回、12月5日に続く。